2016年6月19日日曜日

銘柄を明かさない理由R89 相場師の聖地(後編)

第89話 相場師の聖地(後編)

暗い境内には誰もいなかった。
賽銭を投じ、男は目を閉じた。
そこには静寂だけがあった。
気づくと風の動きが止まっていた。

ふと何人かの男がいる気配を感じた。
男は目を閉じたまま、男たちが何かいうのを待った。
「何しに来た」、ある男がいう。
「わからないから来た、そもそも夢に出てきたのはそちらだ」、男はいった。

「我らが夢に出てきたというのか」、別の男が驚いたようにいう。
「夢に出てきて、助言をしてくれた」、男はいった。
一斉に男たちは笑い始めた。
「何がおかしい」、男はいった。

「我らは夢に出ておらん、貴様の願望が見せた夢だ」、別の男が笑いながらいう。
「いやあ、久々に笑わせてもろたわ、そこまで好かれるとはな」、別の男がいう。
「まあ、よいではないか、慕われるのはよいことだ。
せっかく来てくれたのだ、彼に真の助言をしようではないか」、最初の男がいった。

不意に男に何かがもたらされた。
それは、江戸、明治、大正、昭和の激動の時代を駆け抜けた相場師たちの人生だった。
これが相場師たちの人生なのか、なんて壮絶な人生なんだ。
気づくと男たちの気配は消えていた。

兜神社を後にした男は行きつけの定食屋へ向かった。
のれんをくぐると。店の奥から「いらっしゃいませ」と声がした。
店は今夜もそこそこ賑わっている。
男は端の空いている席に座ると、テレビを観ていた。

「あら、誰かと思えば」、注文を取りに来た女性店主が笑顔でいった。
「いつものを頼むよ」、男がいった。
女性店主は男を見ている。
「何だ、何を見ている」、男はいった。

「何かあったでしょ」、女性店主がいう。
「ああ、出張とか、いろいろあった」、男がいう。
「何だろ、何か、いつもと違うのよね、まっ、いっか」、女性店主は厨房へ向かった。
女子に悟られるとは未熟者めが、男には兜神社の男たちの声が聞こえたような気がした。